西軍を駆逐して皇室と将軍義政
開戦当初は東軍が優勢であった。
内裏や花の御所周辺から西軍を駆逐して皇室と将軍義政を確保し義政の支持を受けて「官軍」と号したことに加え、細川氏と支持者の領国が畿内周辺に集中していたことが有利に働いたからである。
しかし、月には細川領の丹波国を制圧した山名軍8万が上洛し、8月には周防から大内政弘が四国の河野通春ら7ヶ国の軍勢と水軍を率いて入京したため西軍が勢力を回復した。
激戦となった相国寺の戦いは両軍に多くの死傷者を出したが、勝敗を決するには至らなかった。
応仁元年8月29日、突然、義視が東軍を出奔して伊勢国の北畠教具を頼った。
義視の出奔は武衛騒動と文正の政変で追放されていた伊勢貞親が義政に呼び戻されて復権したことが一因とされているが、このころ義政や後見人の勝元が義視の廃嫡と義尚の将軍職就任に傾いたことも大きな原因であったと見られている。
約束に反して将軍職を譲らない義政と義視の将軍就任のために積極的に動かない後見人の勝元、富子に見守られ僧門に入ることもなく成長して行く義尚。
義視は、義尚が誕生した時より幕府に身の置き場所をなくしていたのである。
内裏や花の御所周辺から西軍を駆逐して皇室と将軍義政を確保し義政の支持を受けて「官軍」と号したことに加え、細川氏と支持者の領国が畿内周辺に集中していたことが有利に働いたからである。
しかし、月には細川領の丹波国を制圧した山名軍8万が上洛し、8月には周防から大内政弘が四国の河野通春ら7ヶ国の軍勢と水軍を率いて入京したため西軍が勢力を回復した。
激戦となった相国寺の戦いは両軍に多くの死傷者を出したが、勝敗を決するには至らなかった。
応仁元年8月29日、突然、義視が東軍を出奔して伊勢国の北畠教具を頼った。
義視の出奔は武衛騒動と文正の政変で追放されていた伊勢貞親が義政に呼び戻されて復権したことが一因とされているが、このころ義政や後見人の勝元が義視の廃嫡と義尚の将軍職就任に傾いたことも大きな原因であったと見られている。
約束に反して将軍職を譲らない義政と義視の将軍就任のために積極的に動かない後見人の勝元、富子に見守られ僧門に入ることもなく成長して行く義尚。
義視は、義尚が誕生した時より幕府に身の置き場所をなくしていたのである。
update:2010年03月06日
